私たちにとって主イエス・キリストは、救い主、羊飼い、王、その他様々に呼ぶことができるわけだが、今日の記事では、ご自身を弟子が従う「師」として位置付けている。今日の記事を読むと、同じ表現が三回登場する。それは何だろうか。それは、「わたしの弟子になることはできません」である(26,27,33節)。この表現が鍵となることばである。弟子とは師の教えを受け止め、それに従う存在である。そこに師弟関係が生まれるわけである。それは薄い関係ではなく濃密な関係である。

今日の記事から場面は変わる。これまで、主イエスは安息日の食事にパリサイ派の指導者から招かれて、パリサイ派の人々に教えるというスタイルをとっていた。話す対象はユダヤ人のエリートたちだった。それがガラッと変わる。「さて、大勢の群衆がイエスとともに歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた」(25節)。今度の対象は、自分について来る大勢の群衆である。パリサイ派というエリート層の人たちが主イエスに向ける視線は暖かいものではなかったが、群衆の視線はそうではない。群衆の中にも意地の悪い人はいたかもしれないが、概して、主イエスに好意を抱いている人々が多かったと思う。スターに群がる大衆のように、興味本位で後を追う人々もいただろし、このお方の弟子になりたいと思っていた人たちも数多くいただろう。いずれ、主イエスに好感を抱いている人々が主イエスを取り巻きながら歩いていた。主イエスは今、ガリラヤからエルサレムに上る旅の途上にあった。エルサレムでは十字架が待ち受けていたわけだが、群衆はむろん、そんなことを知る由もなく、ただワクワクしながらついていったはずである。

主イエスは、自分に味方する人が一人でも多ければ良いと、どこかの政治家のように、大衆を扇動したり、大仰なパフォーマンスで自己宣伝をしたり、甘い言葉で人気を勝ち取ろうとしたり、そのようなことはいっさいなかった。むしろ、その逆で、興味本位でついてくる者、弟子とはなんたるかわかっていない者を削ぎ落とそうとする。今日の区分で主イエスが言われたいことは、すべてのものにまさってわたしを優先できるのか、第一とできるのか、それができてわたしの弟子と言えるのだということである。家族とわたし、どちらを取る?自分とわたし、どちらを優位に置く?地上の財産とわたし、どちらに価値を置く?すべてにまさって私を選び取るのでなければ、わたしの弟子であることはできないと。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子となることはできません」(26節)。「わたしのもとに来て」と、主イエスのもとに来るならば、どうしなければならないだろうか。最初に、「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹」と言われているが、家族との絆は、社会の人間関係の中で、最も強い絆であり、最優先すべき絆と理解されている。けれども、聖書の主張は、神である主イエス・キリストとの絆がもっとも大切であるということである。聖書を見ると、隣人愛の戒めが多い。また、父の日、母の日を生み出した「あなたの父と母を敬え」(出エジプト20章12節)は有名である。家族とは愛する存在である。だが26節では「憎む」ということばが使われている。どういうことだろうか。これは嫌うといった感情のこととして理解してはならない。これはへブル的表現で、二つのうち重要な方を一つ選び取らなければならない場合、拒むという意志を表わす用法である。主イエスは比類のない価値あるお方である。人間と主イエスのどちらかを選び取らなければならないという場合、一方を拒み、主イエスを選び取るということである。主イエスとの絆は絶対に失われてはならない。例えば、親が涙しながら、信仰は捨ててくれと懇願してきたとする。親を悲しませないために、「はい、わかりました」とするのが良いのか。それが親への愛なのか。主イエスへの信仰はいけないことなのか。キリスト信仰を理解できない家族のためにできるだけ尽くす姿勢は必要である。だが、それは、主イエスとの絆を損なってまで家族の言いなりになることとは別のことである。また信仰を持っている親たちが、子どもが主のみこころに従うことをやめさせようとする話も聞いたことがある。困難でお金にもならない宣教師になんぞなることはないとか。教会に行くよりも、まず第一に受験勉強だとか。そんな道を選択するためにあなたを育てたんじゃないとか。主イエスとの絆をねじれさせ、危うくする可能性が人間の絆にはある。

マタイやルカの福音書でも、マルコと同じような講話があるが、ルカの特徴は家族のリストに「妻」を入れているということである。親に言われるより、妻に言われるほうがつらいということが実際あるだろう。アダムは妻のエバに誘惑されてしまったわけであるが、それを反面教師として、妻が何と言おうとという姿勢も求められてくるわけである。もちろん、その逆も有りである。

そして最後に、「自分のいのちまでも憎まないなら」と、自分自身と主イエス、どちらを取る?どちらを選ぶ?どちらを優位に置く?参考箇所はすでに学んだ9章23節である。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」。「自分を捨て」とは「拒否する」「否定する」という意味のことばである。自分を捨て、主イエスを取る。自分にNOと言い、主イエスにYESと言う。主イエスは絶対的な価値がある存在であるからそうする。私たちの弱さとして、自分が一番かわいいと思うのが私たちである。けれども、主イエスが一番である。自分との絆よりも主イエスとの絆優先である。主イエスとの絆を損なおうとする内なる声は拒むことである。そうすることが最終的に自分のためになる。

自分のいのちまでも憎むということは、27節の教えに発展する。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子となることはできません」。十字架刑に処せられる囚人は、自分がかけられる十字架の横木を背負って刑場まで運ぶことが義務づけられていた。自分の十字架を負って主イエスについて行くとは、自分を捨て、自分にNOと言い、主イエスのために艱難辛苦をいとわない姿である。十字架刑は公開処刑で、十字架の横木を背負って歩く姿もみせしめのためであったので、「自分の十字架を負って」ということばを聞いた人は、こうした光景が頭に思い浮かんできて、主イエスに従うことは甘くはないのか、という思いはやってきたはずである。

私は大学生になって初めて教会に足を運ぶようになったが、聖書そのものは高校二年の時に読む機会があった。読んだのは新約聖書であったが、なぜかその時、一番心に留まったのは、第二テモテ2章3節の「キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみをともにしてください」であった。たくさんあったみことばの中で、なぜか単純にこのみことばに感動した。愛とか救いとかいのちいったこととは無縁の表現である。真実の道は苦しみが伴うのが道理だ、かっこいい表現だと単純に思った。このみことばが、自分の内側にとどまり続けたのは幸いだった。

主イエスは今日の区分で明らかに弟子道というものを教えておられるが、ご自身のために犠牲を払うことについて明確にしている。主イエスは犠牲を払うことについて、三つのたとえで説明していく。一番目は「塔を建てるたとえ」(28~30節)。この塔は畑や家畜を見張るための物見やぐらのことかもしれない。いずれ、塔に限らず建物を建てるときは、初めに見積もりをして、次に手持ちの資金を計算して、大丈夫と判断してから建て始める。資金をろくに計算もしないで建て始めれば挫折してしまう。これは、犠牲を計算せずに、中途半端な気持ちでわたしに従おうとすると挫折する、ということを教えておられるようである。犠牲を計算して、犠牲を払う覚悟をしっかり持つことが求められる。それをしないでとん挫してしまった人は数多くいるだろう。「この人は建て始めたのに、完成できなかった」(30節)というのは、「入信したと思ったら続かなかったのね」という評価に等しい。特に、日本のような文化においては、犠牲を計算して、犠牲を払う覚悟をしっかりと持つことが大切となってくる。

二番目は「王の戦いのたとえ」(31~33節)。王は戦力分析をしてから出陣する。やみくもに出陣しない。敵の人数と武力、自分たちの人数と武力、地形、そうしたことを分析しながら、作戦を練る。その上で、自分たちが明らかに不利で勝機はないと判断したなら、講和条約を結ぶことを選択する。聖書には少人数で大人数に打ち勝った物語が幾つか記されているが、ここでは、「小よく大を制す」ということを否定しているのではなく、何も考えないで戦いに臨む愚かな王はいないだろう、まず座ってよく考えるはずだ、あなたがたもよく考えよ、ということを言いたいのである。支払う犠牲をよくよく考えるということである。主イエスに同行していた群衆は、主イエスについていくとはどういうことで、どんな犠牲が求められているかなど、ほとんど考えていたフシはなかったのではないかと思われる。心が浮ついていただけの人たちが多かっただろう。いい目を見ることだけを考えていたのではないだろうか。こうした人たちは、主のために起きてくる試練に耐える耐性というものを持ち合わせていないだろう。

33節で主イエスは、犠牲には自分の全財産すべてを捨てることが伴うと言われている。「そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません」。「わたしの弟子になることはできません」ということばは、これまで、26節では家族との関係を中心に言われていた。27節では自分との関係で言われていた。三回目の33節では、財産との関係で言われている。「財産」は普通に「持ち物」と訳せることばである。持ち物を取るか主イエスを取るか、持ち物を主イエスのために犠牲にできるかということである。それにしても、実際に「自分の全財産すべて捨てる」のでなければならないのだろうか。これは自分の持ち物という持ち物を全部、捨てるということを意味しているのだろうか。以前学んだ取税人レビ(マタイ)のことを振り返ってみよう。5章27,28節に弟子としての召命の場面があり、27節で「わたしについて来なさい」と言われた時、28節では「すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った」とある。レビは主イエスの弟子となった。その後、良く見ると、すべてを捨てて立ち上がったレビであったが、主イエスを家に招いてパーティをしている。お金は幾分あった。この「すべてを捨てて」を次のように説明させていただいた。「『すべてを捨てて』とは、これまでの生き方、これまで大切にしてきたもの、築いてきた財も含めて、そうしたものにしがみつかず、それらをすべて主イエス・キリストに従属させてしまうことである。」。「自分の財産をすべて捨てなければ」の「捨てる」を「放棄する」と訳している聖書がある。「捨てる」と聞くと、ポイと捨てると思ってしまうが、権利放棄である。「これは私のものです」「私の財産です」と主張する我執はなくなってしまう。これは私のものだと、それにしがみつくことはなくなる。心の中でさよならし、主イエスにハイと明け渡してしまっている。だから、主が望むならば、いつでも実際手放すことができる。それは主イエスに比類のない価値を見出したからである。そして主イエスの主権というものを認め、主に服従しようとする姿勢があるからである。

三番目は「塩のたとえ」(34~35節)。「塩は良いものです」と言われている。現代は塩分取りすぎと言って塩は悪者にされがちだが、塩は人にとって基本良いものである。今の時期は熱中症予防にも欠かせない。このたとえでは味付けという役割が強調されている。主イエスが言われる塩とは、古代のことなので、精製した塩ではなく岩塩のことである。岩塩は塩気を失うということがあって、塩気を失った塩は役に立たないものとして道路に捨てられた。おもしろいのは「塩気をなくしたら」と訳されていることばは、「愚か」「おバカ」ということばである。塩がおバカになってしまうということである。もうそれは役に立たない。この文脈では、主イエスのために献身する度合いがゼロというか、感じられないというか、主イエスのために犠牲を払う覚悟がない者は、役立たずで無益とされるということである。それに対して、「塩は良いものです」と、主イエスに献身して生きる姿勢のあるクリスチャンは良いものである、有益であるということである。そして、その者が弟子として認められるということである。頭が良くても、知識が豊富でも、賜物が豊かでも、主イエスのために犠牲を払う覚悟がなければ、ただの塩気を失った塩にすぎない。つまりは弟子とは言えない。

私たちは自分自身を主イエスの弟子として位置づけたい。別の言い方では、このお方に自分の命をお預けする、このお方に生涯をささげるという意味で、主イエスを師として位置づけたい。主イエスを我が友と位置づけ、その愛情に慰められることがあるだろう。主イエスを我が羊飼いと位置づけ、その保護に感謝することがあるだろう。ともに私たちは主イエスの権威に服従すること、主イエスのために犠牲を払うことを心がけたい。犠牲というのは、犠牲を感じなければ犠牲ではない。信仰は趣味ではない。主イエスに従おうとするとき、プレッシャーを感じることが起きるだろう。体力も、時間も、財も、犠牲を覚えるということがあるだろう。愛する方のためだからこそ、犠牲をいとわずにということができる。私たちは覚えていたい。主イエス・キリストが私たちのためにどれほどの犠牲を払ってくださったのかを。あの十字架の上で、私たちの救いのためにどれほどの御苦しみを耐えてくださったのかを。主イエスは御かしらから、御手から、御足から、脇腹から血を流し、私たちのために尊いいのちをささげ尽くしてくださったことを。その贖いの犠牲を。私たちはこの主の愛にどのようにして応えたら良いだろうか。私たちはラクチン人生を模索したくなるが、一人ひとりが自発的に、主の弟子として献身の生涯を送ろう。