今日は、私たちを神の国に招いておられる主の愛に思いを浸したいと思う。今日の場面は、安息日の食事に主イエスが招待された場面で、今日は前回の続きである。招いた主人はパリサイ派の指導者(1節)、そして客人たちは、律法の専門家たちやパリサイ人がほとんどだった(3節)。律法の専門家もほとんどがパリサイ派である。パリサイ派にとって主イエスは宿敵である。パリサイ派に取り囲まれた主イエス。完全に部が悪い。彼らはこの時も、主イエスを罠にはめる機会を狙っていたようだが、主イエスは彼らの意図をものともせず、反対に彼らが口を利けないほどに圧倒してしまう。主イエスはパリサイ派の安息日律法の解釈の誤りを指摘した後、招待された客人たち、次に主人という順番で、彼らの傲慢さにメスを入れる教えを説いていく。それが前回までの流れである。直前の12~14節は、主人に対する教えで、食事に誰を招いたらよいかというテーマのお話だった。

この話との関連で、「神の国の食事」を口にする者が現れた。「イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』」(15節)。神の国で食事をすること自体は、主イエスも口にされていた。「人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます」(13章29節)。ユダヤ人限らず、全世界から、様々な国の民族がこの食卓に着くために集められることが暗示されている。「神の国の食事」とは、ユダヤ人たちが待ち望んでいた「メシアの宴会」のことだが、メシアの宴会については旧約聖書においても様々に記されている(イザヤ25章6~9節等)。それは永遠のいのちをいただいた人たちが主の御救いを楽しみ喜ぶ祝宴である。ユダヤ人たちは、このメシアの宴会に連なることができる対象を非常に狭めてしまうことになる。後代のユダヤ人の文書には、異邦人や儀式的に汚れている者、障がい者は、この宴会から閉め出されると記しているものもある。おそらくパリサイ派の人々は、自分たちはゆうゆうこの神の国の食事、メシアの宴会に与れると思い込んでいただろう。一般庶民ははてなマークが付くだろうが、自分たちは二重丸で大丈夫だと。はたして、神の国の食事に与れるのは、一部の特権階級の人々だけなのだろうか。主イエスは、彼らの思い違いを正そうとする。

主イエスは、「盛大な宴会のたとえ」を語っていかれる(16~24節)。この宴会は「メシアの宴会」を表わしている。「するとイエスは彼にこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招いた」(16節)。安息日の食事というのは昼食であったが、宴会の場合、それが催されるのは、通常、午後遅く、夕方の初め頃である。「宴会」と訳されている原語は、12節では「晩餐」と訳されている。暗くなる時分に宴会は始まったのである。しかも、この宴会は盛大な宴会であった。こういう盛大な宴会の場合、まず一回招き、食事の準備が整って実際の宴会の時刻が近づいた時、しもべを送って、17節にあるように、「さあ、おいでください。もう用意ができましたから」と、もう一度招くという二度に渡っての丁重な招きがされた。

18~20節は、招きを断る三人について語られているが、いきなり訪れて、「さあ、おいでください」と言ったのではない。そうであったのなら、「今すぐなんて無理ですよ」と言い訳が立つ。けれども今述べたように、最初の招きというものがあった。最初の招きを受けた人は、心備えをして、様々に手筈をして、二度目の招きで出かけるものであった。この二度に渡る丁重な招きを断るというのは、それ相当の理由がなければならない。18節冒頭では、「ところが、みな同じように断り始めた」とあり、宴会そのものに行く気持ちがないことを暗示させている。彼らは、断るためのもっともらしい口実を提示するが、それは通じない言い訳のようである。

最初の人は畑を買った人である。「畑を買ったので、見に行かなければなりません。どうかご容赦ください」(18節)。宴会は夕方早い時分から始まる。暗くなる時分に土地を視察に行くのは不自然と言えば不自然。それに、買う目途をつけた畑を視察に行くのではない。視察して、もう買ってしまった畑である。買う競争相手はいない。畑も逃げはしない。再び視察と言っても、あせる必要はどこにもない。薄暗がりの中を見に行かなければならないという緊急性のあることではない。

二番目の人は牛を買った人。「五くびきの牛を買ったので、それを試しに行くところです。どうか、ご容赦ください」(19節)。買い手は、買う前に品評してから買うはずである。車を購入する場合、車の特徴、性能を聞いて、今では試乗してから購入の決断をするものである。牛の場合でも品定めしてから買う。牛に触れて動きを確認して買ったのである。この人が言っている試しは買う前の試しではない。もう買ってしまって後のことである。だから急ぐ必要はない。実際の現場で試すと言っても、あえて暗くなる時分に試しに行かなければならない必然性はどこにもない。

三番目の人は結婚した人である。「結婚したので、行くことができません」」(20節)。この三番目の人の口実が一番もっともらしい口実ではある。旧約律法は結婚関係を非常に重んじている。「人が新妻を迎えたときは、その人を戦(いくさ)に出してはならない。何の義務も負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、迎えた妻を喜ばせなければならない」(申命記24章5節)。こうして新婚時代の夫婦関係を重んじる文化が育った。しかし、この断った三番目の人の場合、戦に招聘されたのではない。単身赴任を命じられたわけではない。遠い地に出張を命じられたわけではない。長期間、留守になるということではない。これから結婚式というのならわかるが、結婚式は終わっている。律法は、一年の間、家に缶詰状態で妻から離れてはならない、と言っているわけではない。常識的に、仕事も社交もしなければならない。それにこの宴会は、職場の忘年会といった性質のものではないようである。だから、断る正当な理由とはならない。ちょっとの間、新妻に留守番してもらえばいいだけのことである。

三人とも、断る具体的理由はみな違っているが、本質的なところで、断る理由は同じである。あの主人が主催する宴会には出たくない、ということである。その主人とは、イエス・キリストというメシアである。パリサイ派の人々は、神の国の食事を主催する主人とは目の前にいるイエスであるという事実に気づいていない。パリサイ派の人たちは、基本的にメシアの宴会を拒絶する人々である。

私たちは、宴会の招きを断った三人を、他人事のように思ってはならない。最初の人は宴会に招待してくれた主人を疎んじて、土地という財産に執着したという見方もできよう。神の国を受け継ぐ者からすれば、その土地はどんなに広くとも、猫の額ほどの価値にもならない。二番目の人は仕事に執着したという見方もできよう。牛は仕事の道具である。仕事は確かに大事である。だが、稼ぐことや、牛馬のごとく働くことにだけ関心が行き、神さまのことを忘れた生き方は空しいだろう。三番目の人は家族への執着である。家族は大事である。だが主イエスは後に、家族以上に選び取らなければならないのはわたしなのだと説いている(14章26節)。

現代人も先の三人と同じである。地上の財産に心が縛られ、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢で神の国を求めない。また仕事、稼ぐこと一辺倒で神の国に関心は向かない。また、家族・家庭に幸福のすべてを求める。財産、仕事、家族、これらが人生の三本柱のようになり、それで人生は終わっていく。だが、私たちは、「まず神の国と神の義を第一に求めなさい」という教えに耳を傾けなければならない。神の国を求めるのである。今日の教えは、そのことを先ず教えている。主イエス・キリストは神の国の王であり主(あるじ)であるので、当然のことながら、神の国を求める者は、主イエスを信じ従って行かなければならない。

では続いて、たとえの後半から教えられていこう。招きを断られた報告をしもべから聞いた主人はどうしただろうか(21節)。しもべは急いで大通りや路地に出て行って、貧しい人たちや障がい者を招くように命じられた。気づいた方もおられると思うが、ここで招かれている人々は13節ですでに言及されている。こういう人たちこそ招きなさいと。それはパリサイ人たちが疎んじているような人々であった。だが主イエスは違う。実際に主イエスは、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちにあわれみ深かった。「貧しい人たち」という表現から、平地の説教で、「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです」(6章20節)と語られたことも思い起こす。貧しい人たちは心も貧しい、すなわちへりくだっているということも暗示されている。しかし、先の断った三人は、旧約時代から招かれていたイスラエルのエリートたちが第一に想定されているだろう。この場面ではパリサイ派の人々である。彼らは概して高慢な人たちである。今、招きに与っているのはエリートではない。下層階級の人々である。これらの人々を招いた。しかし、招きにはまだ続きがある。

「しもべは言った。『ご主人様、お命じになったとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』」(22節)。「でも、まだ席があります」と、宴席会場は広いのである。主人は、大勢の人を招きたいのである。つまりは神の国に大勢の人を招きたいのである。初めのほうの16節でも、「大勢の人を招いた」とある。しかも、主人のことをあまりよく思っていない人たちのことさえ招いた。主人は寛大なのである。

「すると主人はしもべに言った。『街道や垣根のところに出て行き、無理にでも人々を連れて来て、私の家をいっぱいにしなさい。』」(23節)。ここに主の愛を覚える。「街道」とあるが、これは町の外である。町の内外関係ない。誰でも招きたい。そして「無理にでも」と、一人でも多くの人を招きたいという主人の思いが表れている。極めつけは、「私の家をいっぱいにしなさい」と、ここに、一人でも滅んでほしくない、すべての人が救われてほしい、みんな御国に入ってほしいという主の愛が最大限に言い表されている。神の国という私の家をいっぱいにしたい、一人でも多くの人に神の国の祝福を味わってほしいというお心で、主は招いておられる。民族関係ない。身分、階級、立場、からだの状態、偏屈な者か放蕩息子か関係ない。主はすべての人を愛しておられる。すべての人に神の国の祝福を味わってほしいと願っておられる。だから、神の国に入れないのは招きを断る側の問題である。

「言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません」(24節)。「言っておくが」で始まるが、原文では「あなたがたに言っておくが」となっていて、「あなたがた」、すなわち、安息日の食事に集まっている律法の専門家たちやパリサイ人たちに向けて言っておられる。その内容は厳しい。そして、ここで、たとえの盛大な宴会は何を意味するのか、宴会の主人は誰であるのかが明らかにされている。注目していただきたいのは、「私の食事」という表現である。たとえの盛大な宴会は、神の国が訪れた時に開催される、終末時代のメシアの祝宴のことである。この祝宴の主人は「私」と言われている主イエス・キリストである。主イエスは今、パリサイ派の指導者が主催する安息日の食事の招きに応えている。居心地の悪い食事の招きによくぞ応えたものだと思う。だが、パリサイ派の人々は、主イエスが主催する真の安息日となる神の国の食事の招きに応えるのだろうか。メシアの宴会の招きに応えるだろうか。使徒の働きを見ると、パリサイ派のユダヤ人も救われていった記述があるが、福音書では大方、主イエスを拒む場面ばかりである。24節は主イエスの警告である。「わたしの招きを拒むならば、あなたがた全員アウト」というメッセージが隠されている。自分で招きを拒むわけだから、アウトになるのは当たり前である。主の御思いはあくまで、「私の家をいっぱいにしたい」である。あとは人の側で、私たちの側で、主の招きを拒むかどうかにかかっている。

招きを拒む理由は、神さまに、救い主キリストという存在に全く興味がないということもあるだろうし、先に見たように、財産・仕事・家族といった世俗のことで頭がいっぱいということもあるだろう。また日本人の場合は、「忙しい」ということを良く口にする。あの用事、この用事で忙しい、暇はないと。暇な人が教会に行くんだろうと。忙しいから聖書を読む暇はないと。忙しいということも断る口実になる。だが、神の国の価値を思うなら、神の国こそ第一に求めなければならないことであり、神の国への招待を拒むべきではなく、キリストに従うことを選び取るべきであると知る。人は忙しい、忙しいと言いながら、自分が大事だと思っていること、興味があることのためには時間を作るものである。ある意味、たとえの中の三人も、忙しいことを口実に断ったようなもの。けれど、時間を作れなかったわけではない。そして大事な招きを卑しめた。後悔先に立たず、である。自分にとって大きな損失だったと気づいた時はもう遅い。土地や牛や一時の楽しみには変えられない永遠の祝福を失って歯噛みするか、絶望するしかない。私たちは何よりも第一に、神の国と主キリストを選び取りたい。永遠に価値のあるものを選び取るべきである。そうするならば、必要なものは、土地でも建物でも車でも仕事でも伴侶でも何でも神が備えてくださるだろう。私たちの世界観の中心には神の国が、主イエス・キリストがあらなければならない。

今日のところから、私たちはもう一つ教えられる。それは、「私の家をいっぱいにしなさい」と言われた主人の心を心として、主のしもべとして人々を招くということである。招きを断られる断られないは別として、神の国に招待する働きをするということである。私たちはキリストの使節である。神の国に人々招こう。その務めをこれからも尊んでいこう。私たちの主人である主イエスは、神の国をいっぱいにしたいのである。一人でも多くの人に神の国入ってほしいのである。