主イエスの旅のゴールが近づいてきた。ゴールはエルサレムである。31節で「ちょうどそのとき」とあるが、22節をご覧ください。「イエスは町や村を通りながら教え、エルサレムへの旅を続けておられた」とある。その途上で、救いに関する質問があり、人々に向かって救いの教えを説かれたことを先週学んだが、「ちょうどそのとき」ということである。「パリサイ人たちは何人か近寄って来て、イエスに言った。『ここから立ち去りなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています』」(31節)。「ヘロデ」の名が挙げられているが、ここでの「ヘロデ」とは、ヘロデ大王の息子「ヘロデ・アンティパス」のことで、ガリラヤとペレアという二つの地方の領主であった。主イエスはガリラヤ宣教を終え、ユダヤ地方のエルサレムに向かっていたわけなので、「ちょうどそのとき」とは、ペレアに滞在していた時の可能性が高い。ペレアはガリラヤの南東に位置し、ガリラヤからユダヤのエルサレムに上る場合、普通に通るコースである(地図参照)。

その時、幾人かのパリサイ人たちが近づいてきて、「ここから立ち去りなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」と忠告する。パリサイ人というと、福音書のどこを見ても、主イエスに対して頑迷な態度を表している。ルカの福音書のこれまでの記事では、11章53節において、「律法学者、パリサイ人たちはイエスに対して激しい敵意を抱き」とある。今日の箇所は、パリサイ人たちが主イエスに親切にする唯一の例という見方もできる。だが、そうではなく、ただの偽善的な姿だろう。ヘロデとパリサイ人たちは、イエスに立ち去って欲しいということで利害は一致していた。ここで「殺す」という脅迫のことばをちらつかせることで、立ち去らせようとしている。主イエスも彼らの結託を見抜いておられたので、32節前半で「行って、あの狐にこう言いなさい」と指示を出している。主イエスは彼らの共謀をご存じであられた。

ヘロデ・アンティパスについてもう少し触れておこう。ヘロデは「狐」と呼ばれている。「狐」は当時のユダヤ文化でも周辺の文化でも、「陰険、悪賢い、ずるい、狡猾な」、そういった風に形容するときに用いられたことばである。しかし、それだけではなく、ユダヤ文化においては、「狐」は、自分は小物にすぎないのにライオンのように見せる人物に用いられたことばである。自分を実質以上に大きく見せようとする人物。ヘロデはまさしくそうであった。ヘロデは、父親のように大王の称号が欲しくてローマ皇帝に訴えたが、退けられた。その後、彼はガリラヤ湖のほとりに住むが、その町を当時のローマ皇帝ティベリウスの名にちなんで「ティベリア」と命名した。ガリラヤ湖は「ティベリアの湖」と呼ばれている(ヨハネ6章1節)。ヘロデはローマ皇帝に取り入って、地位の維持、向上を図ろうとする。その期間に、妻のへロディアにそそのかされて、自分を非難するバプテスマのヨハネを殺してしまう。その後、ヘロデはエルサレムに上って、主イエスの死刑に賛同することになる(使徒4章27節)。そして、主イエスの十字架刑の後のことだが、ローマ皇帝がカリグラに変わった時、妻のへロディアにそそのかされて、再び王の称号を手に入れようと皇帝に働きかける。その時、大量の武器を貯蔵していたことを問題とされ、王の称号どころか、領地はく奪、流刑の身となってしまう(紀元39年)。まさしく自分を大きく見せようとした狐だった。さらに、「狐」ということばのヘブル語の発音は「サウル」で、ダビデに奸計をたくらんだ「サウル」と、つづりの異なる同音異義語である。主イエスはサウルのことを念頭に置いていた可能性もあると言われている。

主イエスはヘロデの悪だくみに左右されて旅のルートを変えようとはされない。「行って、あの狐にこう言いなさい。『見なさい。わたしは今日と明日、悪霊どもを追い出し、癒やしを行い、三日目に働きを完了する』」(32節)。主イエスはヘロデのことなど恐れてはいない。ここで「三日目」という表現だが、「三日目によみがえり」の三日目ではない。「今日と明日、三日目」という表現は、ユダヤの慣用表現で「一定の短い期間」を意味している。パリサイ人がどのような謀略を図ろうとも、ヘロデが何をたくらもうとも、主イエスとしては御父のご計画に服従するだけである。「立ち去れ」「殺す」と脅されても、引くことはせず、御父の命に従って働きを続けながら、エルサレムに向かって先へ先へと進んでいく。その働きはもう間もなく終わる。「働きを完了する」の「完了する」とは、「ゴールに達する」「目的を成し遂げる」「終点に達する」を意味することばである。主イエスはあきらかに、エルサレムでの十字架の死を前方に見ている。その十字架刑において、主イエスの働きは完了する。事実、主イエスは十字架上で「完了した」と言われ、息を引き取ることになる(ヨハネ19章30節)。そこまで、もうちょっとのところまで来ている。先が見えている。終わりは近い。十字架にかからずして、人類の贖いという目的は成し遂げられない。どのような悪だくみに会おうと、ここで退くわけにはいかない。

実は「完了する」と訳されている動詞の態は、原文で「完了される」と受け身の形、すなわち受動態である。誰かによってそうされるということ。ここは「神的受動態」と言われる。それは、神によってそうされる、ということである。隠れた主語は父なる神である。つまり、主イエスは、こう言っておられる。「父なる神は、わたしを通してご自身の目的を成し遂げられる」。主イエスがどう行動するかは、父なる神が定めておられ、ヘロデが手出しして決まることではない。主イエスの働きは、エルサレムでの十字架の死を通して全うされる。途中、ヘロデのたくらみによって殺されることによるのではない。エルサレムでの十字架での死が父なる神の定めである。だから、主イエスはエルサレムに向かって進んで行かなければならない。主イエスにとって大切なのは神の御計画、神のみこころである。人がどう動くかによって決めるのではない。

「しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ」(33節)。32節で「働きを完了する」で終わっていて、33節で「しかし」の打消しで始まっている。あれっと思われるかもしれないが、これは直前の32節を打ち消してしまっているのではなく、31節の「ここから立ち去りなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」の打消しである。主イエスの心にあるのは、ヘロデから逃げることではなくて、父なる神のみこころを行うことである。その積極的姿勢が、「わたしは今日も明日も、その次の日も進んでいかなければならない」に言い表されている。主イエスはゴール間近でコースから外れたり、走ることをやめたりするランナーのようであることはできない。ただ前進あるのみである。後退する、逃げるなどというのはありえない。

主イエスは33節でご自身を「預言者」として位置づけられていることにも注意を払いたい。主イエスは確かに預言者でもあられる。「メシア」の意味は「油注がれた者」であるが、油注ぎは「王」と「祭司」と「預言者」に対して行われた。主イエスはこの三つの機能をすべて持っておられるが、ここでは「預言者」を前面に出している。おそらくは、神のことばを伝える働きを意識してのことだろう。主イエスが再臨される時は「王」が前面に出る。昇天された今は「大祭司」という職務が前面に出ている(へブル人への手紙参照)。しかし今は、みことばを伝えるという預言者として職務が前面に出ている。預言者とエルサレムでの死が結びつけられているが、預言者がエルサレムで殉教した事例はこれまでも幾つかある。ウリヤ(エレミヤ26章20~23節)、ゼカリヤ(第二歴代誌24章20~22節)、伝説ではイザヤもエルサレムで殉教している。またマナセ王の罪でこのように言及されている。「マナセはユダに罪を犯させて、主の目に悪であることを行わせた罪だけでなく、咎のない者の血まで多量に流したが、それはエルサレムの隅々に満ちるほどであった」(第二列王記21章16節)。こうした記事を読めば、エルサレムで殉教した預言者はウリヤやゼカリヤ、イザヤといった預言者以外にもいたことが推測される。エレミヤの場合は死なずともエルサレムで迫害を受けている(エレミヤ38章4~6節)。エルサレム外で殉教した預言者たちもいる。主イエスがエルサレムにこだわる発言をしているのは、エルサレムは神殿があるところであり、イスラエルの心臓部であり、そこにイスラエル人の罪が集約されていたからであろう。また、先に述べたように、エルサレムで最期を遂げることが、ご自身に課せられた使命であることを自覚されていたからであろう。

これまでのところから、主イエスのご覚悟ということを心に留めさせられる。父なる神のご意志に服従しようとするご覚悟がどれほどのものであったのかを教えられる。パリサイ人たちやヘロデの邪魔も関係がない。ご自分に託された働きをご存じで「初心貫徹」の一途な姿勢。前へ前へ、先へ先へと進んで行かれる。そして、では私たちはどうなのかと考えさせられる。主イエスのこの姿勢に倣って、ある意味、前進あるのみで進んで行かなければならないと思う。神のみこころというものをつかんだならば、自分に与えられた使命ということがわかっているならば、老若男女問わず、誰でもが主イエスの姿勢に倣わなければならないと思う。それが家庭での務め、社会での務め、教会形成、何であっても。ぶれない姿勢が求められている。

では、後半の主のことばを見ていこう。「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった」(34節)。初めに、エルサレムの罪の重さが言われている。それは神が遣わされた預言者たちを殺すという罪である。石で打ったことも言われている。モーセ律法に石打ちの刑があるが、それは、偶像崇拝を行う罪(申命記13章)、安息日を汚す罪(民数記15章32~36節)、主の御名を冒瀆する罪(レビ記24章10~23節)といった重罪に適用される処刑法である。これを神が遣わした預言者に課すわけだから、もう完全に、白を黒、黒を白とするような、ひどい神への反逆状態になってしまっていたということである。神は忍耐と寛容をもってこのひどい状態と付き合って来られた。しかし、永遠にこの状態を見過ごすわけにはいかない。神は義なるお方なので、正当な裁きをいつかは下さなければならない。その時が近づいていた。紀元70年になると、エルサレムの神殿の崩壊、エルサレム陥落の裁きが下される。多数の人が犠牲になり、捕虜とされることになる。エルサレムは壊滅する。ただ、今日の箇所から覚えておきたいことは、神は滅ぼすことを願っておられたのではないということである。

「わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった」(34節後半)。これは、主イエスが旧約時代から神として、イスラエルの頑なな民たちをおもんぱかり、愛情をもってご自身のもとに集めようとしたことが幾たびもあったことが言われている。「めんどりがひなを翼の下に集めるように」である。愛情がにじみ出る表現である。おバカで反逆的な民を、あの手この手で導こうとし、ご自身のもとへ引きよせようとした。時には懲らしめも用いられた。危険を察したひなは、めんどりの翼の下に身を避けることもする。イスラエルにとっては外敵が襲って来た時などがそうであった。ペリシテ、アッシリア、バビロニアなどが襲ってきた時、彼らは主に叫び求めた。「翼の下」とは、あきらかに神の愛と守りの表現である。主イエスは受肉以前から、人となられる前から、永遠の神、まことの神、イスラエルの神として、めんどりがひなを翼の下に集めるようにして、イスラエルの民を集めよう、救おうと働きかけて来られた。詩篇91編4節にはこうある。「主は、ご自分の羽であなたをおおい、あなたは、その翼の下に身を避ける」(4節)。だが、エルサレムは全体としてそれを拒んだ。遣わされた預言者を殺すことまでして。彼らは主に立ち返ることを拒んだ。「おまえたちはそれを望まなかった」というのは、どんなに愛情を降り注いでも、自分たちの意志で主に立ち返ることを願わなかったということである。「望まなかった」とは「願わなかった」という意味である。願わないのなら仕方がない。だから、滅びは「願わなかった」本人たちの責任である。神はあくまで、誰ひとりとして滅びることを望んでおられない愛の神である。しかし、ご自身の義を曲げてまで罪を見過ごすこともできないお方である。

「見よ、おまえたちの家は見捨てられる」(35節前半)。「おまえたちの家」という表現は、聖書において「エルサレム神殿」を指し、また「エルサレムという家」とも解釈できる。それが「見捨てられる」。この動詞も神的受動態となっている。「神はおまえたちの家を滅ぼす」ということの婉曲的表現である。

だが、神の愛は終わらない。エルサレムが真に回復する時が訪れる。「わたしはおまえたちに言う。おまえたちが『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』と言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない」(35節後半)。これは、キリストの再びの来臨、キリストの再臨によってエルサレムが回復することの預言となっている。「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」は詩篇118編26節の引用であるが、メシアが来臨する時に、エルサレムの人々の目が開かれ、「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と、歓喜をもってこのメシアを迎え入れるという様を表わしている。エルサレム回復の預言は旧約聖書でも数多く記されている。

今日のタイトルは「「翼の下に」ということだが、「めんどりがひなを翼の下に集めるように」という主の愛は、場所と時代を越えて、私たちにも注がれている。それは、十字架刑にもっとも良く表されているのではないだろうか。主が両手を広げて十字架についたあのお姿に、翼を広げてひなを招き寄せようとする主の愛を想う。そこに救いがある。私たちはこの御翼の下で憩うことができる。十字架、そこが真の憩いの場所である。私たちは主の十字架を仰ぎ、主の十字架という御翼の陰を慕い求め続けよう。また、この御翼の下に、人々を招き寄せたいと思う。