今日の記事は、シモン・ペテロが出家の弟子として主イエスに召される物語である。私たちは今日の物語を有名な物語として心に留めるだけではなく、今の自分につなげて読みたいと思う。それは、私たちがペテロとともに主イエス・キリストのすばらしさを知るためである。

場所はゲネサレ湖である(1節)。これはガリラヤ湖のことであるが、ルカは親しみのある通称で表現している。現代ではキネレテの海と呼ばれている。海と呼ばれるのは大きいからである。長さ21キロ、幅12キロ。このガリラヤ湖は淡水で、魚が豊富で、後に、聖書の人物名をつけられる魚も出てくる。シモンのスズメダイ、アンデレのスズメダイ、マグダラのスズメダイ。

さて、主イエスはガリラヤ湖の岸辺に立っておられた(1節)。群衆にメッセージを語っておられたのである。群衆は一人また一人と増えていき、おびただしい数の群衆になっていった。人々は押せや押せやで押し迫るようにして主イエスの話を聞くことになる。話をする環境としてはよろしくない。この問題を解決しなくてはならない。その時、主イエスは二艘の舟が岸辺にあるのをご覧になった(2節)。その舟は空いていて、舟の所有者は網を洗うために舟から降りていた。もう漁は終わっていたのである。漁は夜中にすることが多く、この時は午前中である。

主イエスは所有者の舟の一つに乗り、舟を陸から少し漕ぎ出すように頼んだ。それは、シモン・ペテロの持ち舟だった(3節)。主イエスは陸から近すぎず遠すぎずの適当な位置から教え始められた。この場所であると群衆に悩まされなくてすむ。そして湖から陸に向かってというこのスタイルは声がよく通る。音響効果も抜群である。

この時、主イエスとともに舟の中にいた人物は、舟の所有者のペテロである。主イエスは単に群衆に神の国の福音を伝えるために舟を漕ぎ出させたのではなかった。そこには、もう一つの目的が隠されていた。それはペテロにご自身を知ってもらうため、ペテロの霊的成長のためであった。ペテロと主イエスの関係はこれが最初ではない。前回4章38節では、ペテロの姑のいやしの記事から学んだ。主イエスはペテロの家に滞在することが多かったようである。すでに寝食をともにしてきた。ペテロは主イエスの教えにも耳を傾けてきた。いわば在家の弟子である。そして、弟子としての転機となる出来事が起きる。それが今日の場面である。ペテロはいわば奉仕を頼まれる。私を舟に乗せて漕ぎ出しなさいと。もしペテロが断っていたら、驚きの体験は生まれなかった。今以上に主イエスを知ることはなかった。ペテロはいわば、実践による信仰成長の機会が与えられた。主のために奉仕をすることを通して。私たちも信仰が絵にかいた餅で終わらないために、主に従うということ、それが何かの奉仕であるならばするということ。皆さんも主イエス・キリストのお姿に心の目が開かれる機会となったのは、弱さを覚えながらも舟を漕ぎ出すような体験を通してではなかっただろうか。そのことを通して、主の力、知恵、愛ということを知ることになる。ペテロは主イエスのために舟を漕ぎ出したことにより、主イエスのすばらしさを知ることになる。ペテロは一晩の漁で疲れていたはずだが、主の願いに応えることによって、新しい発見、感動、驚きに至る。

群衆へのメッセージを終えられた主イエスは、ことばを語る対象を群衆から弟子へと移す(4,5節)。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」(4節)。これは従いたくない命令である。一晩中漁を試みた。にもかかわらず何一つ取れず、疲れと失望の中にある。体力、気力は底のほうに行っている。また捕りに行きなさいというのは、やる気はわかないはずである。腰が上がらない命令である。

それにまた、捕りに行きなさいと言われた時間帯と場所が問題である。時間帯は午前中である。1,3節から、二度説教をして、すでにお昼頃であったかもしれない。魚の捕れる時間帯は夜間である。魚は夜に餌をあさる習性があるため、夜に活動的になる。日中は岩陰に身を潜ませているので、漁には不向きである。それにまた日中であると、魚であっても目が利くので網をよけやすいが、夜間はかかりやすい。ペテロたちは最善の時間帯に、あっちこっちに網を下ろしてみた。もっとあっちに行ってみよう、今度はこっちだと。精一杯手を尽くしても何一つ捕れなかった。それなのに、なぜこんな時間帯にという命令である。そして捕りに行かなければならない場所は深みである。深みは魚が余りいない場所である。魚は酸素をたっぷり含んだ新鮮な水が豊富に流れ込む湖岸近くにいることを好む。それなのに、沖合の深みに漕ぎ出せだなんて。しかも日中。

だが、ペテロは、「でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう」(5節)と従った。なぜ従えたのか。命じたのは大工の息子で、ペテロは百戦錬磨の漁のスペシャリストである。でも、素直に従うことができた。どうしてだろうか。それは、ペテロは権威のある主イエスのことばを聞き続けてきたからであると思う(4章32,36節参照)。この時も主イエスは群衆に権威のあることばを語っていた。ペテロもそばで聞いていた。ペテロが今受けたことばは、ただ単に大工の息子のことばではなく、権威のある神のことばであった。

ペテロはまったく葛藤がなかったかといえばゼロではなかっただろう。瞬間でもためらいはあったはずである。従うまいとする心と従おうとする心がぶつかって、戸惑いはあったと思う。けれども、ペテロは主イエスのことばに権威を感じたのだろう。従う心が勝った。こうしてペテロは、主イエスを乗せて舟を漕ぎ出すという第一次試験に合格した後に、今度は、深みに漕ぎ出して網を下ろすという第二次試験に合格したのである。彼は、たくさん並べられる理屈は脇に置いて従ったのである。その結果待っていたのは、驚きの体験である(6,7節)。大漁となり、網は破れそうになり、仲間の者たちに助けを求めなければならないほどであった。二艘の舟は魚でいっぱいになり、舟はぐっと沈んで、ヘリの高さは水面の近くまで来たかもしれない。

このエピソードでは、主イエスの全知全能を覚えることができるだろう。主はどこに網を下ろせば魚が捕れるか知っていただろう。主は魚の居場所どころか人の心の中までご存じである(22節)。また主イエスは全知というだけではなく全能のお方である。魚の大群を導くことのできるお方。だから当然、どこに魚の大群がいるのかもご存じ。

ペテロは驚くばかりの大漁に、主イエスに神性の輝きを一瞬にして感じることになる。「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。『主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。』」(8節)。「私から離れてください」と言っても、当時の舟の長さは10~15メートルくらいだったらしいが、舟の中は沈みそうなくらい魚でいっぱいだし、舟から出て、水の中に飛び込んでもらうわけにはいかないし、「ペテロよ、自分から離れなさい」と言いたくなるようなことばでもある。ペテロらしい。心に留めたいのは、ひれ伏して「私から離れてください」と反応した理由が、「私は罪深い人間ですから」というペテロの自覚であったということである。別にイエスさまはこの場面で、ペテロの罪を指摘したわけではない。だが、あり得ない大漁に、主イエスに神性の輝きを感じた。それはペテロに罪深さを感じさせるに十分であった。罪は神聖なお方を意識したときに、必然的に距離を作る。罪人は神の臨在を感じとると、恐れ、ひれ伏し、しり込みする。ペテロは5節でイエスさまを「先生」(別訳「親方」「頭」「ボス」)と呼んでいた。だが、もう先生であって先生ではない、それを超える存在として認知している。8節において、ペテロは「先生」ではなく「主」と呼んでいる。「主」は神的呼び名で、ギリシャ語70人訳では神に相当する。ルカも主イエスの神性を表すのに、この呼び名を用いている。ペテロはイエスさまを主なる神として認識した。だからこそ、「私は罪深い人間ですから」という告白が生まれている。ペテロが主イエスの神聖さを知るというのは自分の罪深さを知るということでもある。両者は表裏一体である。この体験が彼の転機となった。主イエスの本来の姿を知る、自分の罪深さを知る、実は、これが弟子としての召命に欠かせないのである。

この時、ペテロといっしょにいた者たちもみな驚いた(9節)。それはペテロの仲間たちだった。その仲間たちとは、10節前半から、ゼベダイの子ヤコブやヨハネだったことがわかる。もしペテロが主イエスのおことばに従わなければ、彼にも彼らにもこの驚きは生まれなかったわけである。

ペテロに召命がある。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです」(10節前半)。福音書において、魚はたましいの象徴として使われている。ペテロは、たましいをすなどる働きの召しを受ける。

献身がそれに続く。「彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った」(11節)。「彼らは」とあるので、ヤコブやヨハネもである。彼らは同業者である。「すべてを捨てて」とあるが、魚を、舟を、仕事を、家を、家族を捨てた。しかしこれは、もう魚を捕るのをやめてしまうということではない。家に二度と足を踏み入れないということでもない。家族と断絶するということでもない。それを求めるのはカルト宗教である。ペテロは魚を捕ること自体を止めたわけではないし、後に奥さんを連れて宣教旅行をしている。すべてを捨ててイエスに従うとは、生活の優先権を主イエスに明け渡してしまうということである。

「彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った」というのなら、網が破れそうになるくらい捕れた、たくさんのお魚はどうなってしまったの?と心配する人もいる。もちろん、そのまま放置ということにはならなかっただろう。ヤコブとヨハネの父のゼベダイが生きていれば、これらの魚を引き受けたかもしれないし、漁師仲間が引き受けたかもしれない。それらを売ることができただろうし、一部は貧しい人たちに分け与えることもできた。ヘンドリンクセンは次のようにコメントしている。「弟子たちから家族の心配を取り除くために、たくさんの量を与えられた」。おもしろい考察である。

私たちが今朝覚えたいことは、捕れたお魚の心配ではなく、主のことばに従う信仰ということとである。それによって驚きが生まれ、主をさらに知ることになる。結果、主の前に謙遜になるという弟子としての資質をいただくことになる。

「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」という従いにくい命令から、様々な人の弱さが言われる。一番目は、消極的に考え、無理だとあきらめてしまうこと。すると、神の驚く恵みを味わわないで終わってしまう。二番目は、自分の経験、判断に頼ってしまうこと。そして、深みに行くのはやめるのが賢明だと。もしペテロがそうであったら、深みに漕ぎ出さなかった。さらに三番目として、自分の信仰の大きさで主イエスを推し量ること。自分の信仰という型にイエスさまを押し込めてしまい、イエスさまを無力にしてしまい、結果、驚きが生まれずに終わってしまう。今述べたことは真実だが、主の命令、主の御旨によるものでなければ、それは無謀以外の何ものでもないこともわきまえておかなければならないだろう。実際、自分勝手な無謀な行動で死んでしまった人もいる。初代教会時代は、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」という命令は、一つの比喩として受け取られ、安全な港から離れ、深みへと漕ぎ出しなさいと教えられたようである。しかし、その場合も、主の御命令としての深みであった。主の御命令であるならば、そこは安全なのである。そして、それが最善なわけである。

私たちは、それが主の招きであるならば、主の御命令であるならば、主の御旨であるならば、岸辺にとどまっていてはならない。また浅瀬にとどまっていてはならない。深みに漕ぎ出さなければならない。私たちにとっての深みは、主の御旨であるということが前提で、自分がやりたくないこと、気が進まないこと、無駄骨だと思っていること、無理だと思っていること、自分にとって未知の分野、一段高く感じられる何か、そういったことだろう。しかし、そこには主の備えがあり、だからこその命令であり、そこで主イエスのすばらしさを体験することになる。主のみわざを拝する。私たちも、同じように、繰り返し主イエスのすばらしさを体験していきたい。

主イエスのすばらしさを知ることと、自分の罪深さを知ることは表裏一体であることはお話したが、ペテロは自分の罪深さを悟って召しを受けた。自分の聖さ、正しさではなく、自分の罪深さを口にする者を召すというのは不思議に思えるかもしれない。だが明らかに主イエスは、自分は神に対してふさわしい者だと思い違いしている人を望んではおられない。自分には能力があり力があり、神を助けることができると思い違いしている人を望んではおられない。自分は罪深く、自分はつまらない者であると、ご自身の御前で謙遜になる罪人を望んでおられる。

主イエスはおじまどうペテロに対して、10節で「恐れることはない」という愛の御声を投げかけ、弟子となるよう招いてくださった。「主よ、私から離れてください」と口にしたペテロだが、それは主が嫌いになったということではなく、それは主の偉大さに対する反応である。主は益々従いたくなる存在となった。ペテロは主の権威ある愛の招きに引き寄せられ、主に従う者となった。ご存じのように、ペテロはこの後、順風満帆に主イエスに従って行ったわけではない。十字架刑を前にしては、主イエスを見捨てる行為に出てしまう。その時は、これまで以上に自分の罪深さというものをひしひしと感じることになる。ヨハネの福音書21章を見れば、また同じくガリラヤ湖で、復活の主の命令によって再度の大漁を経験することになる。そのすぐ後に、ガリラヤ湖の岸辺で、復活の主がこのような愚かな自分を赦し、あるがままを愛してくださっていることを、ひしひしと甚く感じることになる。そして、再召命を受けることなる。

ペテロを取り扱ってくださった主イエスは、私たちのことも取り扱ってくださるだろう。肝心なことは、私たちを引っ張り出そうとする主の御声にどう反応していくか、である。私たちは今いる所から主のことばに聞き従い、実践の中で主イエスを知っていく体験を積み重ねていきたい。主イエスは、ご自身の力、知恵、愛を教える体験へと私たちを導いてくださるだろう。