前回は主イエスの故郷ナザレでの出来事を見た。主イエスはナザレの会堂で、イザヤ書61章を読み、メシア宣言をされた。しかし、ナザレでは主イエスは歓迎されず、人々の怒りを食った(28,29節)。しかし、ここカペナウムでは、当面の間歓迎される。

「カペナウム」は「ナホムの墓」という意味で、ナホムという預言者が死んだ村であると伝えられていた。位置はガリラヤ湖の北西の岸辺の町で、ペテロの出身地ということになる。比較的大きな町で栄えていた。漁師、農民、職人、商人、役人たちがいて、ローマ軍の駐屯地があり、収税所もあった。このカペナウムが、主イエスのガリラヤ伝道の本拠地、活動の拠点である。マタイの福音書9章1節では、このカペナウムが主イエスの「自分の町」という表現で言われている。故郷はナザレだけれども現住所はカペナウムというところである。ルカは、今日の区分で、ピンナップボードにまとめて記録写真を掲示するように、カペナウムでの四つのエピソードをまとめて記している。それを順を追って見ていこう。

第一は、会堂での悪霊追い出し(31~37節)。主イエスは土曜の安息日ごとに会堂に入って教えておられたようである。教えるのは許可が出れば、正式な教師でなくとも良かった。32節には「人々はその教えに驚いた。そのことばには権威があったからである」とある。ユダヤ教の教師の語り口は、あの人はこう言った、言い伝えはこうである、といった引用めいたものが多かったと言われるが、主イエスの場合は、神のことばそのものが内側からあふれ出てくる、権威を感じる話しぶりであった。人々は驚くことになる。それはナザレの会堂でも同じであった(22節前半)。さて、ある安息日に会堂で事件が起きる。教えの最中か後かわからないが、汚れた悪霊につかれた男が、大声を上げた(33節)。その内容は「ああ、ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です」(34節)。悪霊は主イエスに滅ぼされるのを恐れている。ヤコブの手紙2章19節には、悪霊が神に対して「身震いしています」という描写がある。悪霊はイエスという男の実体を知り抜いていた。そして、ここでは「神の聖者です」という呼び名を使っている。「神の聖者」ということばは、前節の「汚れた悪霊」と対比することができるだろう。光のレーザーが殺菌し、汚れを消し去るように、主イエスは悪霊に対して滅ぼす権威を持ちたもうお方なのである。実は、ユダヤ人たちは、悪霊はメシア時代が来れば粉砕されるだろうと言っていたようだが、まさしく、メシア時代が到来したのである。カペナウムでの悪霊追い出しは、そのしるしとなる。主イエスはメシアである。

主イエスの悪霊追い出しはことばによって行われた。悪霊追い出しの記述は他宗教にもユダヤ教にもある。しかし、魔術めいたものばかりで、体を打ちたたくとか、魚の肝をあぶるとか、呪文を唱えるとか、はっきり言ってオカルトの世界である。だが、主イエスの場合、32節で「そのことばに権威があった」とあるように、権威のあることばで追い出してしまう。この場合、特徴的なのは「出て行け」の前に「黙れ」と命じておられることである。「黙れ。この人から出て行け」(35節前半)。41節でも同じである。先読みしてみよう。「また悪霊どもも、「あなたこそ神の子です」と叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは悪霊どもを叱って、ものを言うのをお許しにならなかった。イエスがキリストであることを知っていたからである」。悪霊どもの認識はまちがっていない。イエスは「神の子」「キリスト(救い主)」、その通りである。では、なぜ語ることを許さなかったのか。一つの推測として、周囲にいた人々が、キリスト、すなわちメシア(救い主)と聞いても、メシアの性質を誤解したり、未成熟な理解でしか受け止められないからというものがある。当時の人たちは、メシアと聞けば、政治的なメシア、武力で列強諸国から解放してくれるメシア、ユダヤ民族の独立を勝ち取ってくれるメシア、パンをふんだんに与えてくれるメシア、そういうメシア観で足踏みしていた。だから主イエスは悪霊にもの言わせたくなかったと理解するわけである。しかし、それ以上に、汚れた悪霊に自分のことを語ってほしくない、汚れた悪霊に宣伝されたくない、そういうことであったのではないだろうか。敵がほめ殺しの戦術を使って、相手の信用を失墜させるということがあるが、そういう戦術が悪霊の念頭にあったかどうかはわからないが、汚れた口に物を言わせることは益なし、と判断されたのではないだろうか。

この悪霊追い出しの場面のもう一つの特徴は、「何の害も与えることなくその人から出て行った」(35節後半)ということである。他宗教の悪霊追い出しの記述を読むと、打ちたたいたり色々して、死んでしまった、などというものもある。しかし、そうではない。害を与えない。傷つけることはない。追い出せなかったのでもない。しかも追い出したのは、人々が「このことばは何なのだろうか。権威と力をもって命じられると、汚れた霊が出て行くとは」(36節)と驚いているように、権威のあることば一言によった。まさにメシアのわざである。

第二はペテロの姑のいやし(38,39節)。「シモン」はペテロのもとの名前である。カペナウムにはペテロの家があり、主イエスはペテロの家で寝泊まりすることが多かったのではないだろうか。この時、ペテロの姑が病で伏せっていた。姑とは、つまり、ペテロの奥さんのお母さんである。この姑は娘のところに尋ねてきて、たまたま熱を出してしまったのか、それとも夫を亡くして娘のところに同居するようになっていて熱を出したのか、詳細はわからない。姑の病はマラリアではなかったのかとも推測されているが、ここでは「ひどい熱」とあるだけである。昔の医学は、熱を「大きな熱」と「小さい熱」の二種類に分けたとも言われる。ここでは「大きな熱」ということになり、それに苦しめられていた。

この熱病のいやしも権威のあることばによった。「叱りつけられる」とある。このいやしが奇跡であったことは、「彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた」という、ほんとうに熱病で苦しんでいた人とは思われない、馬力のある行動からわかる。ふつうであれば、峠は越えたようだけれど、重湯をすすって、まだしばらくお休みください、である。ペテロの姑の場合は、一瞬にして熱が下がっただけではなく、一瞬にして活力がみなぎったのである。一瞬にして完全な健康体になった。まさに奇跡である。そしてすぐにイエスさまたちにお仕えした。

第三は、日が沈んでのいやし(40,41節)。「日が沈むと、様々な病で弱っている者をかかえている人たちがみな、病人たちをみもとに連れて来た。イエスは一人ひとりに手を置いていやされた」(40節)。「日が沈むと」とあるが、ユダヤでは日暮れから新しい一日が始まる。先の記述は安息日であった。安息日は仕事はせずに、出歩かないでいなければならない日であった。だから、人々は安息日が終わるのを待って、主イエスのもとに押し寄せた。その数は多かった。「様々な病で弱っている者をかかえている人たちがみな」とある。「みな」とは「すべて」ということばである。カペナウムは大きな町なので病人の数は三桁に上ったかもしれない。現代では、日曜日は病院がお休みなので、月曜日に患者数が増える。この記事で、一つの特徴は、主イエスのいやしの手段である。それは「一人ひとりに手を置いて」である。私たちはこれを読んで、特段、特徴的と思わないかもしれない。しかし、旧約聖書では、手を置いて人をいやすという記事は全くない。ユダヤ教の文書にも、手を置いていやすという記事は出て来ないそうである。旧約聖書において手を置くという動作は、相手を祝福するときの動作である。いやしの場面にはない。主イエスは、この祝福する動作をもっていやした。しかもルカは、他の福音書にはない表現をとっている。それは手を置くのが「一人ひとり」ということである。眼病を患った人、身体障碍者など、大勢の人が連れて来られただろう。そして、苦しみ、痛み、症状を訴えただろう。そんな人が次から次へと。でもイエスさまは邪魔者扱いにはしない。この場面を思い浮かべると、主イエスの優しさ、同情の姿ということが浮かんでくる。一人ひとりに聴診器を当てるように、「一人ひとりに手を置いて癒された」。主イエスの病をいやす権威には、病んでいる一人ひとりに対する優しさが伴っていた。ルカは医者だったので、主イエスのいやす動作を注意深く描いている。私たちは「一人ひとりに手を置いて癒された」という記述から、その動作の丁寧さということ以前に、主イエスには病んでいる人々の弱さに寄り添う意識がしっかりとあられたことを見落としてはならないだろう。それなら、私たちはどうなのかと自問自答させられる姿である。

第四は、追っかけられる主イエス(42~44節)。これまでの活動を見たら、追っかけられるのも無理はない気がする。追っかけたのは連れ戻すためであり、いつまでも自分たちと一緒にいてもらいたかったからである。「朝になって、イエスは寂しいところに出て行かれた。群衆はイエスを捜し回って、みもとまでやって来た。そして、イエスが自分たちから離れて行かないように、引き止めておこうとした」(42節)。対照的なのはナザレの人々である。29節を見れば、ナザレの人々は主イエスを追っかけたのではなく、「追い出した」とあり、その目的は殺すことにあった。では、カペナウムの人々は良い人々だったのだろうか。そうでもなさそうだ。ルカ10章15節を見よ。「カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ」。主イエスに対する歓迎の態度はやがて冷めてしまう。地域は変わっても、人間性はそう変わらない。罪人の本質は変わらない。では、あの行動の違いは何なのだろうか。4章に戻ろう。主イエスはナザレでは奇跡的なみわざはさほどされなかった(23節参照)。反対にカペナウムの人々は、悪霊追い出しも病のいやしもいっぱいしてもらい、欲求が満たされ、ニコニコ顔になった。いつまでもカペナウムにとどまってほしいという気持ちになった。それで主イエスがいなくなったら、追っかけ、捜し出し、引き戻そうとした。説得し、口説き落とそうとしただろう。「イエスさま、行かないでくださいよ。カペナウムにイエスさま専用の土地も建物も用意します。近々、町民栄誉賞のお祝いもしますから」。そんなことを言ったかどうかはわからないが、しきりに頼み、せがんだことだろう。神さまのご計画はどこにあるのかとか、他の地域にもイエスさまは必要だとか、そういうことは頭にはないようである。自分たちのことで頭がいっぱいである。それで主イエスを独り占めしたかった。だが、主イエスは彼らの欲求を満足させること自体が目的で天から来られたわけではないし、カペナウムだけのために来られたわけでもない。私たちはカペナウムの人々と同じ霊性になり、自分たちの生活の質だけに関心を払い、自分たちの満足だけを追い求めることになるなら、何をかいわんやである。

主イエスは彼らの願いに応じなかった。「しかしイエスは、彼らにこう言われた。『ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから』」(43節)。主イエスがここで言われているのは、「ほかの町々にも病人や悪霊につかれている人は大勢いるから、そこに行かなければなりません」ではない。言われたのは「神の国の福音を宣べ伝えなければなりません」である。病人のいやしや悪霊からの解放は、福音書を読むと神の国到来のしるしである(10章9節,11章20節)。これらはしるしであって、それ自体が救いではない。人はいやされ健康になっても、やがて必ず死ぬ。主イエスは彼らの病の苦しみに心を寄り添わせ、いやしに携わったが、それが最終目的ではない。永遠の救いを与えるために来られた。永遠の救いはキリストを信じて神の国の民とされることによって与えられるものである。私たちを神の国に入るのを妨げているものが罪である。神の国に入る入場券には、「あなたの罪は赦された」という証印が押されていなければならない。そのために、まことの神はまことの人となり、地上に降り、十字架で私たちの罪を負い、罪から来る報酬は死です(死のさばきです)を私たちの身代わりに引き受け、救いのみわざを全うしようとされた。主イエスのカペナウムでの活動は十字架以前であるわけだが、主イエスがこの時点で「神の国の福音」と言われる時、人々に求めていたのは、罪の悔い改めと、ご自身を神の救い主と信じる信仰である。そうするならば、罪の赦しと神の国に入る特権と永遠の救いが与えられる。だから「福音」なのである。マルコは主イエスのガリラヤ宣教のことばついてこう記している。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1章15節)。

44節では、「そしてユダヤの諸会堂で、宣教を続けられた」と、カペナウム以外の町々で福音宣教をされた事実が記されている。ここでの「ユダヤ」という表現であるが、当時のイスラエルは、ガリラヤ領、ユダヤ領というように行政区が分かれていたが、ここではその意味でのユダヤではなく、イスラエルの総称であると思われる。主イエスが公生涯を通して福音を伝えるようにと父なる神から託されていた範囲は、イスラエル全土だったということである。そのために精力的に各地を巡回された。しかもタイムリミットは約3年。そして、公生涯の終わりに、イスラエルの民だけではなく、全時代の全民族のために、ご自身のいのちを十字架で捨てることを決めておられた。福音が福音となるためにである。私利私欲などはみじんもない全くの献身的なお姿である。

多くの人々は、残念ながら、イエスは自分たちが期待していたメシアとは違うと気づくようになる。彼らは、刹那的に、今の自分たちの生活の満足だけを求めていて、その期待に応えてくれるメシアを待ち望んでいたが、イエスさまはそういう人物ではないと気づくようになる。皆で王様に持ち上げようとすると、スッと身を引いてしまわれる。そして、へりくだることを説き、悔い改めを説き、自分たちがあまり目を向けたくない罪に目を向けさせようとする。人々は失望していく。そうした中でも、幾ばくかの者たちが、へりくだり、自分の罪を認め、悔い改め、主イエスを神の救い主と仰いでいくことになる。ルカの福音書にやがて登場する罪深い女や収税人ザアカイなどもそうである。

以上で、主イエスのカペナウムでの活動の四つのエピソードを見たが、主イエスのお姿について、私自身は二つのことを教えられた。一つは、主イエスのメシアとしての権威、また優しさである。主イエスは力と優しさが同居するお方である。主イエスから神の力を奪い、優しいだけの無力なイエス像を提示する人たちがいるが、それは間違っている。主イエスは無力ではない。悪しき霊にも病にも、そしてやがて見るように、自然界にも力を持ち給う権威ある神である。だが当時拝まれていたような、気まぐれな荒ぶる神ということではなく、病んでいる人々に心を寄り添わせ、一人ひとりに手を置く優しいお方である。

もう一つ教えられるのは、主イエスの福音に対する心意気である。主イエスは民衆が求める以上の幸いを、神の国の福音を通して与えようとされていた。「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから」。まだ、この国には福音を知らない者たちがいる、わたしはそのために遣わされたと。このスピリットは、世の終わりまで、すべてのクリスチャンに継承されなければならないものである。